目次
# はじめに
高校1年生から「古文を原文で読めないとだめですか」ときかれました。私は「原文でなんか読めなくてもいいよ」と答えました。「は?そうなんですか??」みたいな顔をしてました。私もそうだったように、多くの高校生が「古文を原文で読めないといけないか」とか「古文を何のために勉強するか」、疑問に思っていると思います。なので今日はその高校生との会話を再現しながら、項目ごとに書いていきたいと思います。
# 古文を原文で読めないとだめですか?
そんな必要は全くありません。受験では原文で読める必要があります。そうでないと問題解けないので。でもこんなのは一切役立たないと思います。今の生活や大人になってからのことを考えると古文を原文で読める必要は全くありません。これは何のために古文を学ぶかという話とかかわります。
# 何のために古文を学ぶのか
あなたは古文を何のために学んでいますか?私が高校生のときは「学校で出るから」「テストに出るから」「受験に出るから」という理由でした。でもそんなために古文を学ぶのではありません。
古文を学ぶ理由は、「現代を相対化するため」です。「相対化?」「は?」って感じですよね。わかりやすくいうと、「昔と比べて、今の自分たちをふりかえるため」です。
でもまだなんのことかわかりませんよね。
例を考えてみましょう。
# 横の比較(空間的比較)
「今の日本人が当たり前と思っているけど、実は特殊な習慣」をあげてみてください。高校生は答えました。「おじぎ」「はしを使う」など。いろいろ思いつきますよね。じゃあ、それ以外は?
私が大学生の頃、日本人のお風呂の習慣を調べたことがあります。日本人は外国人に比べるとお風呂が大好きです。イタリア人とかも好きなんですけど。テルマエ・ロマエとかにあるように。でも日本人はお風呂が大好きなんです。日本人は人にもよりますけどお風呂に1日2回とか入ったりします。朝シャンとかいって。私も高校の頃は夜入って、朝も入ってました。浴槽もありますね。ホテルとかいくとわかりますけど、外国はユニットバスです。
今私は日本人について考えるときに外国と比べました。これを「横の比較(空間的比較)」といいます。このように何かを他のものと「比べる」と特徴がいろいろとわかるわけです。
# 縦の比較(時間的比較)
昔の日本人も今ほどお風呂に入ってはいませんでした。そもそも平安時代にはまず浴槽がありません。蒸し風呂です。蒸気を身体にあててふくわけです。それも毎日ではありません。だからおそらくですが、身体から匂いがします。だからお香をたくわけです。古文を読んでいるとよく、「お香をたく」とか、「袖の香」とかいう表現がでてきますよね。今だと外国の人も体臭があって香水をしたりしますが、あれも同じです。ほんとに匂いがするかどうかはわかりませんが。
で、私は今、日本人を昔の日本人と比べました。これを「縦の比較(時間的比較)」といいます。
# 比較とは
このように比較することによって、いろいろな特徴が浮かんできます。比較は人間の認識方法のうち、もっとも最初の基本的なものです。その次が順序、次が例示、次が理由・根拠です。他にもいろいろあります。
比べるとまず「ちがい」が浮かびます。これを対比といいます。「ちがい」以外にもうひとつ浮かぶのですが、それは何かわかりますか?今の日本人を昔の日本人と比べると「ちがい」がありますよね。でももうひとつあるのです。それは何かというと「同じところ(共通点)」です。比較はこの2つを出すためにやっています。ですから読むときも比較していたら、この2つをさがすわけです。
いいですか?「比較(比べる)」というのがあって、その下の概念として「対比」「類比」があります。しかし学校の先生や予備校の先生は「比較」と「対比」を同じ意味で使っています。「比較(対比)」みたいに。私が代ゼミに通っていたときもそのように教えられて、「あー、ちがうなー」と思っていました。
# 古文と歴史を学ぶ理由
いろいろ話は脱線しましたが、古文はこのように今を昔と比べるためにやっています。歴史もそうですよね。ただどちらかというと歴史は事実、古文は人の心の側面が強いかなとは思いますが、まったく同じ理由です。
また脱線するのですが、歴史を学ぶことのこれとはちがう理由をここ最近考えていました。それは同じ失敗をしないためです。「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」という言葉があります。経験もちろん大事なんですけど、それだとやってみるまでわからないわけです。で、やってみて同じ失敗したり、そもそも全部できないってなるわけです。また同じ戦争しちゃうかもしれません。私は今、マーケティングの本を読んでるんですけど、これも歴史です。やってみなくても勉強すればするほど、今までの歴史から学んでいけるわけです。経験、むちゃくちゃ大事です。でも歴史から学びましょう。
# 古文を教養のために学んでいる人へ
古文を教養のために学んでいる人がいますね。源氏物語を読んでればえらいと思ってる人たちです。私はこの教養のために学ぶというのがあまり好きではありません。本とかもそうです。大学生の僕は「小説読んでる俺えらい」と思ってました。でもそういうのはよくありません。勉強とかもそうですね。勉強しても別にえらくありません。勉強したこと、読んだ本、そういうのをいかして、自分の生活をよくしたり、まわりの人や社会に貢献できて、はじめてよかったとなります。
少し話それますが、好きでやってる人はいいのです。古文を読むのが楽しすぎて楽しすぎて読んでしまう人は勝手にやってればいいと思います。おもしろくて趣味なわけですから。価値あります。
でも私が今話しているのは、別に好きじゃないけど、やらされている人に向けてです。で、「好きじゃないけど、教養のために読んでます」みたいなのは、ただの勘違いなのでやめた方がいいです。
# 古文を受験のために学んでいる人へ
私が高校生のときに古文を学んでいた理由は、「受験に出るから」でした。もう根本からまちがっているわけです。「受験ではどんな力を図っているか」知っていますか?学力です。大事なのは学力なわけです。大事な学力というのがあって、それをテストや受験で図っているわけです。多くの人は「受験で出るから大事」みたいになっています。
ではそのように大事な力とは何でしょうか?それは「将来や今の生活に必要なこと」です。それを大事だから学校で教えるのです。で、それをテストや受験で測るのです。
「学校で習うから大事、受験で出るから大事」ではありません。
これがわかっていないと「受験でよく出る問題、受験で便利なやり方」を追いかけるようになります。私も昔はそうでしたし、気持ちはわかりますが、でもそれはちがいます。大事なのは学力をつけることです。そうすれば試験は勝手にできるようになります。
ただし、今どき、学校で習う力や受験で問われる力が、「将来や今の生活に必要な力」になっていないので、ここは真剣に注意しておいてください。
で、このように「受験のために古文を学ぶ」というのがそもそも間違いであるのですが、これが中学生や高校生はだいたいそうなってると思うんです。国語も英語も数学も社会も理科も、受験のために学んでいませんか?それによって網羅的に学習できたり、真剣になれることはいいことではあるんですけどね。
でも、「学んだことは、目的のためにしか使えない」というのがあります。受験のために古文を学んだ人は受験には使えますが生活には使えないわけです。そして受験が終わると古文の勉強をやめます。悲しくないですか?
私も昔は受験のために学んでいたり、教えるために学んでいたので生活には使えませんでしたが、今は、今の自分をふりかえるために読んでいるので、生活に使えるようになりました。
# 今の自分たちをふりかえるために古文を読むことの具体例
古文は昔と比べて今をふりかえるために学ぶという話をさんざんしてきました。「理屈はわかったよ、実際どうするんだよ」というかんじだと思うので、実際に例をだしてみたいと思います。
今の人と比べて、昔の人はどんな感じでしょうか。
昔の人は月にうさぎが住んでいると思っていました。子どもはどうかわかりませんが、大人であれば今そんなことを思っている人はいません。科学の時代だからです。
昔の人は夢に誰かがでてきたら、その人が自分のことを想っていると考えていました。今そんな人はいません。科学の時代だからです。
昔の人は月をみて、遠く離れた人のことを思い、あの人も同じ月をみていると思っていました。
私がこのように古文を読んで一番印象深かった話があります。
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「もしある日家に帰ったときに、なんかよくわからない男が血だらけのナイフをもって出ていって、そのあとわるい予感がして家をみたら家族が血まみれで死んでたらどうする?」
「追いかけます。」
「追いかけてどうする?」
「警察に突き出します。」
「それで満足?」
「自分で仕返しするかもしれません。」
「そしたら君も犯罪者だけど。」
「…。でもそれでもいいので仕返ししたくなります。もしくは警察につかまえてもらいます。」
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私なら絶対に警察や法律には頼りません。自分で仕返ししたくなります。でもそうはいってもやはりそのときは警察に頼るかもしれません。私は特殊ですが、やはり今の時代、多くの人は警察や法律に頼ると思います。
そんな中、私が昔読んだ古文にはこんなことが書いてありました。
「これも運命だから仕方がない。」
衝撃でした。頭の中にしびれが走ったんです。
これは私の予想ですが、おそらくそのときは警察や法律が今ほど整備されていなかったのだろうと思います。また、そういうことが日常茶飯事のようにあったのかもしれません。だから考えても仕方がないので、そのように受け取るしかなかったのでしょう。
似たようなことが今の私たちにもあります。それは自然災害や突然の事故死などです。もう人知をこえすぎていて、運命としか言いようがないわけです。
ですが、300年後、きっと人々はそう言わない。おそらくそれを技術のせいにするでしょう。人工知能がすべてを解決しています。そのときに、「どうしてこの地震や事故を予測できなかったのか?」と人はいうかもしれません。
平安時代は「運命だから仕方がない」でした。これが戦国時代だったらどうでしょうか。戦国時代は仇討ちが美徳です。逆に仇をとれないと腰抜け扱いされたわけです。「大事な親を殺されたのに仇もとれないなんて、情けないやつだ」と言われたのです。
時代によって人々の考えがかわります。
正しいのは誰でしょうか。私たちでしょうか、平安時代でしょうか、戦国時代でしょうか。ここで大事なのは、どれが正しいかではなく、今の私たちをふりかえって考えるきっかけにすることです。私たちの日常や考え方、常識は、私たちにとっては当たり前すぎて、それだけみていても絶対にこういうことに気づけません。でもこういうふうに時代をかえて比べると「あれ?」ってなるわけです。
# 古文を原文で読む必要がありますか?
古文を学ぶ目的がわかってもらえたでしょうか。で、私は聞きたいのです。「古文を原文で読む必要がありますか?」と。なくないですか?私はみんなに言ってます。「原文読めたり訳せたりは必要ないから、現代語訳よめばいいよ」と。もちろん受験のためだと話は別で訳せないとだめです。だからそれは練習はします。でもそれがいったい将来何の役にたちます?「原文訳せるけど学ぶ意味がわからない」とか「受験終わったら古文よまない」みたいな受験生がほとんどじゃないですか?たいがいの古文は現代語訳があるのでそれを読みましょう。
ちなみに繰り返しますが、受験解きたいとか、文学や日本史の研究者になりたいとか、そういう場合は別です。その目的のためには現代語訳が必要です。私は受験ではなく、生活にどう役立てるかという話をしています。
# 人が何かを学ぶ理由
ここまで、何のために古文を学ぶかという話をしました。このように学習の目的をはっきりさせると成果が上がります。人の脳は「おもしろい」か「必要性を感じる」ときにそれをとりこもうとするからです。常に今何のためにやっているかを考えてください。私は国語だとそれがいろいろと言えます。何のために評論を学ぶか、何のために小説を学ぶか、何のために詩を学ぶか、何のために俳句や和歌を学ぶか。社会や理科、英語もいえるかなと思います。
ただ数学だとそれがいえません。生活で役だったことがありません。いまだに何のためにやっているかがわからないのです。
ただ経済学やパソコンのデザインソフトをつくるのに微分積分を使ったりしますし、天文学では対数を使いますね。確率やデータ分析は私も使います。私が好きなプログラミングの分野では数学が必要という人といらないという人にわかれるのですが、これから世界を席巻するであろうAi(人工知能)をつくるには数学がバリバリ必要だそうです。
私の分野ではあまり必要なかっただけで、あなたが進む分野では数学を使うかもしれません。
# おわりに
今日は「古文が原文で読める必要があるか」「古文を何のために勉強するか」という話からいろいろ脱線しながら話してきました。またこれを読んで、思ったこと、考えたこと、ご感想など、どんどんコメントやメールでアウトプットして自分ものにしていただけるとうれしいです。ありがとうございました。
(追記)
そのうち、「平安時代は罪をおかしても芸術に優れていると許される話とその現代版」、「1000年前と今でも人間の本質は同じという話」、「人間最後は古文に頼りたくなる話」など、編集してかけたらいいなと思っております。
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